労災過労死の申請、損害賠償請求は、労働事件専門の京都第一法律事務所へ

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日立造船舞鶴工場過労自死事件

日立造船舞鶴工場過労自死事件

労働保険審査会で業務上認定

京都の過労自殺事件勝利の道を開いてきたのは、日立造船舞鶴工場のSさんの事件だと思います。

事件発生は、1993年3月、そしてようやく労災認定をさせたのが2000年5月、それも監督署や審査官が業務外にしたものを中央の労働保険審査会で逆転勝利の採決をさせたのです。

7年という年月はかかりましたが、画期的だったのは、当時、多くの過労死事件が、審査会でもだめ、地裁でもだめで、ようやく高裁で勝訴するという事例が多かった中で、中央の審査会という行政の不服審査手続きの中で勝利し(ここでの勝利裁決事例は一般的に極めて乏しい)、裁判までいかなかったことです。

そもそも、遺族の労災申請そのものが、事件から3年半後のことであったことから勝利裁決までの年月は、それほど長期間とは言えないかもしれません。

むしろ申請までの3年半が長い歳月だったと言えます。会社は何もしてくれません。同僚たちも、会社の中にいるため、公然とは手をさしのべてはくれません。そんな中、遺族が、ようやくにして京都の職業病対策連絡会議にたどり着き、自宅に残った本人の資料・手帳をもとに、医師の援助も得て、被災者本人の置かれていた状況を明らかにしていくことで、何とか申請にこぎつけたのでした。

企業責任も明らかにさせる

この事件では、未だ過労自殺の認定基準が厳しかったこともあって、労災認定審査請求手続きとは別に会社相手の損害賠償請求の民事訴訟も並行して進めました。その提訴が1997年。労災認定を受けて、会社も非を認め賠償金の支払いを約束、2000年11月、裁判所で勝利的な和解解決に至ったのです。

業務上認定と勝利和解を決定的にさせたのは、会社が資料で出してきた勤務時間と、本人が手帳に書き記していた勤務時間の大きな違いであり、それが明暗を分けたと言って過言ではありません。それには、被災者の責任感や人柄も大きな役割を果たしました。

勝利を生み出したもの

私たちは、当該労働者が亡くなった後事件の依頼を受けます。だから本人を知りません。しかし、何時ものことながら、事件への取り組みを通して、被災者が見えてくるのです。亡きSさんのどこまでも真面目で、人一倍責任感が強く、それ故思いつめ、苦悩する姿がくっきりと浮き上がってきます。私たちが、そんな姿を浮き上がらせることに成功した時、勝利が訪れます。このことは過労死・過労自殺事件の「原点」です。

大企業の過労自殺の事件は、幾重にも困難が横たわっています。当事者がいないため直接事情の把握ができない、周りに支援者が少ないため事情の把握が難しい、会社のガードは強く例えば時間外勤務についてもサービス残業が多かったりするので事実に迫ることが難しい、「自殺」という本人の意思が介在するためその原因の把握が難しい、などなどです。こうした中で、本人が残した「資料」を点にして、力になろうという良心的な労働者の力を線にして、家族の力を加え、それらを結んで、事実を何とか浮かび上がらせることができました。当初は、バラバラだった「資料」が、こうして結び付いて目に見える形にすることができ、労災認定へと結び付いていったのです。これができたのも、亡きSさんの、責任感と人柄の故だと痛感します

そして、事件を勝利に結び付ける上で、運動の力で社会が大きく動いたことも大きかったです。過労自殺は、過労死同様、誰もが認知する日本社会のあり方を問う言葉になり、定着してきました。正にその経緯の中で、この事件も争われたのです。