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「けいわん」「腰痛」など健康問題とのたたかい

「けいわん」「腰痛」など健康問題とのたたかい

画期的判決 -養護学校での「けいわん」「腰痛」は公務災害

1999年7月から翌年3月にかけて、連続して2つの画期的な勝訴判決を獲得しました。

まず、城陽養護学校で、養護学校が義務化されて間もない時期から重症心身障害児の教育に従事してきたA教諭が、頸肩腕障害に罹患したという事件、丹波養護学校で同じような重症重複障害児教育に従事したB教諭が背腰痛症に罹患した事件です。

両者とも、行政段階で長い間、拒否され続けました。基金支部は、A教諭(85年の認定申請から7年も経った91年8月14日)に公務外の処分を下しました。これに対し、A教諭は、1995年4月12日、京都地裁に公務外認定処分の取り消しを求めて提訴をしました。

基金は当初、A教諭の従事した業務が「中腰、前屈みの姿勢、手腕の屈伸等の動作を伴う作業はあるが、児童の動きに対応して、身体の色々な部位を伴う混合的・複合的作業であって、繰り返し作業や持続的に一定の姿勢・肢位保持を必要とするものでない」から認定基準に当てはまらない、通常、公務に起因するものであれば、3カ月程度療養すれば、治癒すると主張してきました。

職場の実態を訴えて闘う

重症心身障害児の多くは寝たきりの状態で筋緊張が強く、変形や拘縮を伴っているため、食事・排泄・更衣・入浴・洗面などの日常生活全般にわたって介助が必要で、重い精神発達障害があり、その多くがてんかん、呼吸器系の弱さ・嚥下困難、視覚障害・内臓疾患など他の障害を合併しています。

重症心身障害児の発達を保障する教育活動は、その姿勢の保持や、顔を子どもの目線に合わせるために腕で子どもの姿勢を支持しながら、道具を中空にかかげ、反応が出るまで中空に腕を保持し続けねばならないなど、頸や背中に大きな負担のかかる作業の連続でした。

弁護団は、裁判提訴後も、幾度となく現場に足を運び、作業姿勢なども写真撮影したりして、作業負荷が誰の目にも明らかになるように書証作りを工夫しました。

これらの作成作業は、A教諭の同僚たちの一方ならぬ協力なくしては成し遂げることはできませんでした。また、障害児教育の専門家(玉村先生)にも意見書を作成してもらうなどの協力も得ました。

ところが結審問近に、基金支部は「鑑別診断が不十分であるから、頸肩腕症障害にあたらない」などという主張の医師の意見書を出してきた。弁護団は徹底した反撃(いわゆる敵性証人である医師を証人申請し、徹底した反対尋問)を行って闘った。そして、ついに京都地裁において勝利判決を得、控訴されることなく確定させることができたのである。

B教諭事件 -子どもたちの笑顔に支えられて

A教諭の事件と同様の職場で、背腰痛に罹患・発症したのがB教諭でした。

B教諭は、丹波養護学校が設立した翌年、養護学校が義務化された年に、丹波養護学校に新任。重症心身障害児の教育に一貫して携わった中で、背腰痛症を発症しました。

B教諭は、「勝てる」ことを信じて闘ってきましたが、基金支部・支部審査会・本部審査会とことごとく、「公務外」とされてきました。そこで、展望を見失いかけたときに、それまでめぐり会った多くのこどもたちの笑顔が脳裏に浮かんだといいます。そして、裁判を闘うことを決意しました。当初の申請から提訴までに10年もの月日が流れていました。

この事件でも、A教諭事件でも重視した、仕事の実態を丁寧にかつ正確に把握し、裁判所に明らかにしていく作業を行いました。これまでの研究や調査を踏まえ、また、滋賀医大の峠田先生に意見書を作成していただきながら、一般論としても、丹波養護学校のような重症心身障害児施設における介助作業が、背腰痛症を発症させる危険性のある仕事であることを主張、立証しました。さらに、学校での健康調査の結果を踏まえ、丹波養護学校についても背腰痛症の発症する危険のある職場であることを主張・立証しました。

そして、提訴より2年、申請より13年という長い年月を経て、裁判で公務災害と認定させたのです。

2つの判決の大きな意義

弁護団は、2つの判決の大きな意義として、当時、次の点を上げて総括をしました。

第1に、心身障害児学校が、けいわん、腰痛発症の危険に満ちた職場であることを認定させたこと。これらの判決で、行政側は、抜本的な健康管理体制の改革が求められることになったこと。

第2に、公務災害の認定にあたっては「事実」を踏まえるべきであり、行政が被災者を切り捨てる際に使う「認定基準」にとらわれてはいけないことを宣言したこと。これらの判決を契機として認定基準の抜本的改訂を含む基金制度の改革に向けての取り組みが、これからの大きな課題であるとしました。

そして、2つの判決をバネに、公務災害「基金レベル」でも勝利し、2つの闘いの中から、向日が丘養護学校や呉竹養護学校で「認定」事例が生まれ、けいわん、腰痛認定の道が切り拓かれました。

C教諭事件 -中央基金審査会での逆転勝利

C教諭は、丹波養護学校で、長い間、A教諭や、B教諭と同様に重度心身障害児学校において、両氏と同様の仕事に従事してきていました。その仕事の中で、股関節症を発症した事例です。C教諭は認定申請で、公務外とされ、基金支部における裁決でも、公務外とされました。

そこで、基金本部への不服申立段階から岩橋が関与することになりました。A教諭事件、B教諭事件と同様に、C教諭の業務の内容を詳しく指摘し、目に見える形での資料作りに力を入れました。

併せて、主治医の意見書およびそれに関連する医学的文献も追加して、本部審査会の口頭審理で、職場の仲間の実演をまじえ、目に訴える口頭審理を展開し闘った。それらが効を奏し、本部審査会で、異例の逆転認定となったものです。

本部審査会の裁決書は、基金支部の調査、判断のいい加減さを浮き彫りにしました。基金支部では「C教諭の業務を上肢、肩、頸部、腰部などに一定の負荷がかかる状態で行う業務ではあるが、(1)股関節部との関連では特に過重な負担がかかったとは認められない、(2)また、これらの業務は職員で分担して行われており、C教諭のみに過重となっていたものとは認められない」とし、公務との因果関係ついて(3)相対的有力原因説の立場でかつ医学的知見からも公務外としていました。

しかし、基金本部では、これらの判断を真っ向から否定し、仕事の実態を重視し、(1)については、請求人の股関節には過重な負荷がかかるものであったことを認め、(2)についても、実務経験豊かな請求人に対し、一層過重な負荷となったと率直に認定し、因果関係については「医学的知見から請求人が有していた先天的股関節脱臼という基礎疾患が股関節に過重な負担のかかる業務を担当したことにより自然的経過を超えて急激に著しく憎悪し、本件疾病が発症したものと考えるのが相当であり、本件疾病発症と公務との問に相当因果関係があるものと認められる」として、全く反対の結論を出しました。

因果関係については、医学的見地からもCさんの主治医の意見書と同様の基金本部での鑑定意見が得られ、それが勝利の一つの要因となったことは間違いありません。しかし、それ以上に、C教諭事件の勝利の要因は、基金支部の裁決書で認められなかったところをさらに補充する内容を十分に検討して、A教諭事件、B教諭事件の裁判での蓄積を生かした資料作りに力をいれたこと、B教諭と同一職場であり、B裁判で背腰痛症を引き起こす危険性の高い職場とされたことが重要な意味をもったと思われます。そのような職場での同様の公務が常識から考えても股関節に重大な負荷を与えていることは明らかでした。医師の意見書が説得力をもったのも職場の実態を十分に理解してもらえた結果でしょう。そして、何より、あきらめずに事実の重みをつきつけることを重視し、本部審査会の口頭審理で同僚が再現するなど、口頭審理でもB教諭と同じ職場であることを強調したことが勝利に結びついたと思います。

これからの闘い。仲間、組合-蓄積をカに

この3つの事件が闘われていた時期、当事者、当該職場の同僚、職対連、教職員組合、弁護士の交流が十分に行われていたように思われます。

労働事件、労災事件こそ、職場の仲間の協力や理解が大きな力を生むことを感じます。このようにして勝ち取った成果が今どのように活用され、前進させられているかを検証しながら、今後につなげていく取り組みがなされていくことを希望しつつ、この報告をまとめます。

(A教諭事件・B教諭事件事務所担当 村山晃、岩橋多恵)
(C教諭事件事務所担当 岩橋多恵)